1: 風吹けば狗鷲 2018/03/19(月) 18:20:45.31 ID:/8PNG8fa0
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今年1月4日に膵臓(すいぞう)がんのため70歳で亡くなった楽天・星野仙一副会長のお別れの会が19日、東京・港区のグランドプリンスホテル新高輪で行われた。

 場内には全長35メートルにわたって花が並べられ、中日、阪神、楽天とそれぞれのユニホームを着た星野氏の写真が飾られた。
弔辞は東京六大学時代からしのぎを削ってきた親友でありライバルでもあった元広島監督の山本浩二氏(71)、明大大学野球部同期で青森・三沢市議会議員の堤喜一郎氏(71)、楽天株式会社代表取締役会長兼社長の三木谷浩史(53)の3人が述べ、ソフトバンク・王貞治会長や野球評論家の野村克也氏、前巨人監督の原辰徳氏、楽天ナインら約1500人が参加した。

 山本氏は弔辞を「家族を愛し、チームを愛し、ファンを愛し、野球に恋をした星野仙一。友でよかった。ありがとう。安らかに」と締めくくり、
三木谷オーナーは涙ぐんで何度も言葉を詰まらせながらも、今季はユニホームの裏に星野副会長が背負っていた「77」の数字をつけて楽天ナインが戦うことと、「77」を永久欠番にすることを約束していた。

引用元: 【楽天】星野仙一副会長のお別れの会 三木谷オーナー「77」永久欠番を約束

2: 風吹けば狗鷲 2018/03/19(月) 18:21:08.06 ID:/8PNG8fa0

3: 風吹けば狗鷲 2018/03/19(月) 18:21:54.02 ID:/8PNG8fa0


 楽天監督、副会長を歴任し、今年1月4日に膵臓(すいぞう)がんのため70歳で死去した星野仙一氏のお別れの会が19日、東京・港区のグランドプリンスホテル新高輪で行われた。

 球界内外から1500人が集まり、野球界に大きな足跡を残した同氏に別れを告げた。

 主な出席者のコメントは以下の通り。

 原辰徳氏 信じられない時間が長く、現実として受け止めることが難しかった。お別れの会ということで、けじめをつけようと思って来た。残されたものが大きい。積みに積んできたんだと、あらためて思った。

 ソフトバンク工藤公康監督 いろいろな角度から野球界の事を考えてこられた方。自分は子どもたちのためにという視点があるが、もっともっと良くしたいという思いは同じ。今は指導者という立場だが、野球界のために自分ができることを頑張っていきたい。

 ヤクルト宮本慎也ヘッドコーチ 今でも「生き返ってくるんじゃないか」と思っている。野球くじの話もされていたが、まだまだ野球界に必要な方で、代わりがいない方でもある。残念です。

 谷繁元信氏(日刊スポーツ評論家) 実感が持てず、まだどこかで野球界の事をいろいろ話しているんじゃないかという感じがする。寂しさや存在の大きさは、この先感じるのだと思う。これからの野球界に思いを少しでも伝え、残していけたら。

 三浦大輔氏(日刊スポーツ評論家) 昨年の殿堂パーティーでお会いしたのが最後。「絶対にユニホームを着ないとダメだぞ」と言っていただいた。言葉を忘れず、野球界のため頑張っていきたい。

4: 風吹けば狗鷲 2018/03/19(月) 18:22:02.42 ID:/8PNG8fa0

5: 風吹けば狗鷲 2018/03/19(月) 18:22:02.83 ID:/drV/m3sx
これって28日に大阪でもやるやつかな?
この前の甲子園行けなかったから行こうかと思う

6: 風吹けば狗鷲 2018/03/19(月) 18:22:57.82 ID:/8PNG8fa0
 今年1月4日に膵臓(すいぞう)がんのため70歳で亡くなった楽天・星野仙一副会長のお別れの会が19日、都内で行われ、大学時代から親交のあった元広島監督の山本浩二氏(71)が弔辞を述べた。
法大のスラッガーだった山本氏は明大でエースを務めた星野副会長と東京六大学からライバルとして戦い、2008年の北京五輪では星野監督の下で打撃コーチとして支えた。

 台本などは使わずに語りかけるようにして、ゆっくりと言葉を選びながら7分52秒だった弔辞は以下の通り。

 「仙、まだ信じられないよ。去年のパーティーで疲れているんじゃないかなという思いがありました。1月に訃報を聞いたときに、まさか…。さみしくて、悔しくて、今でも信じられません。
50年の付き合いになるんだよな。よきライバル、そしてよき友として、張り合って来ました。現役時代は、移動日になると、お互いの家に食事に行き、何の変哲もない話ばかりして、子供たちも大変世話になりました。
監督時代、チームを率いるんだから、付き合いはやめようと約束をして戦いました。考えてみればいつも、負けたくない気持ちをお互いをもっていたんじゃない。
ただひとつ、若い頃、田淵と3人で食事をしているとき、『いつか一緒のユニホームで戦いたいな』と。その戦いたいユニホームが北京オリンピックでした。監督の要請があったときにすぐに電話をくれて、『一緒にやるぞ』と。残念ながら、メダルは獲れませんでした。
しかし、あの間の、1年半、非常に充実した、そして、周りからの批判もあるかも分からないけど、がむしゃらにやろうじゃないかという話をしました。相手の国の視察、予選の前の合宿、それから本戦まで気の抜けない毎日でした。普通の監督だったら、3人ではできなかったかもしれない。
星野仙一の心の広さ、懐の深さをしみじみ感じました。改めて、星野仙一はすごいやつだったんだなと。そのすごい奴を50年間、友として、付き合ってくれて、本当に、ありがとう。今日もたくさんの人がお別れに来ている。全国の人が、別れを惜しんでいる。
すごい人間だった。この笑顔は、忘れられないよ。ケンカ早い仙が、本当は心の優しい奴なんだというのは、皆さんがもう知っている。今頃、亡くなった扶沙子さんと楽しくやっているんだろうな。家族を愛し、チームを愛し、ファンを愛し、野球に恋をした星野仙一。友でよかった。ありがとう。安らかに」